fc2ブログ

このサイトはRPGツクールをメインにした創作サイトです。
TOP ≫ CATEGORY ≫ SPECIAL

忘れられた翼外伝 -地の底より咲く黄金花-1

Prologue

 森林に包まれた王国、ルクレチア。
 少女ジョッシュは王国の平和を守るグリーンナイトとして、今日も今日とてマイペースに自らの仕事をこなしていた。

 ある日、彼女はルクレチア王国に訪れた謎の危機にいち早く気付き、その危機に立ち向かうべく魔道士ストレイボウの助力を請うことに。
 今回の危機の原因は、ルクレチア西部にある勇者の山にあると断じたストレイボウは、ジョッシュともども勇者の山へと急行する。そこで2人が見つけたものは、想像を絶する真相だった――!

原作:名護みい
作文:桜エルフ

スポンサーサイト



忘れられた翼外伝 -地の底より咲く黄金花-2

Scene1

 大きなあくびが、彼……もとい「彼女」の口からこぼれ落ちた。
 一応整えられてはいるものの、乱雑な印象は拭えない三つ編みの赤毛が、彼女の後頭部で揺れる。
 「彼女」の年の頃は16歳ほど。服に包まれた胸部は柔らかく膨らんでおり、その下の肢体は猫のように美しく引き締まっている。
 一見するだけなら問題なく若い女……それも十分な魅力を持っている……として見える「彼女」は、しかし女性にはおよそ似合わない立ち居振る舞いのせいで、「彼女」と断言しきるのを人にためらわせていた。
 先ほどから、大あくびをためらいもなく何度も漏らしている。
 椅子に腰掛けた彼女の肢体は美しいが、それを堂々と開いてがに股で座り込んでいるのでは、その美しさも半減しようと言うもの。下半身には裾の短いスカートに合わせ、スパッツを着用していることが、せめてもの救いにはなっているだろうか。
 このルクレチア王国において、限られた者しかまとう事を許されないグリーンナイトの甲冑も、必要最低限のパーツを残してだらしなく外れている。その必要最低限のパーツですら、きちんと身に着けているとは言いがたい。
 どう見ても「ずぼら」としか形容のできない彼女の興味は、続けて窓の外に移っていた。
 窓からは、午後の太陽を浴びるルクレチア王国の城下町の光景が切り取られ、覗ける。
 ここ、ルクレチア王国城下町の兵士駐屯所からは、城下町を往来する人々の姿や、その人々を収容する煉瓦作りの家がよく見える。兵士駐屯所は、ルクレチア王国内の治安を守るために存在するのだから、当然町の真ん中に存在していても何ら不思議はない。
 赤毛を三つ編みにした彼女は、窓の外の人を眺め始めていた。
 赤い服の人が3人。
 青い服の人が2人。
 緑の服の人が5人。
 目に飛び込んできた光景の中に居る人を、そんな風に数え始めたとき、この部屋の反対側のドアの開く音が、彼女の耳に飛び込んできた。
「ジョシュア、お前はまたそんなだらしない格好を!」
 入ってきたのは、鉄の色ではなく真鍮の色をした鎧で身を固め、緑のマントを肩に掛けた者。兜の面頬をずり上げると、その中からは壮年の男性の顔が覗ける。
 この姿を見て、彼の身分を誤解するルクレチア国民はまずいないだろう。ルクレチア王国兵団の特殊部隊、グリーンナイトである。
 グリーンナイトの男性に「ジョシュア」と呼ばれた赤毛の少女は、振り向きながら不満そうに口を尖らせた。
「ボクの事は『ジョシュア』じゃなくて『ジョッシュ』って呼んでよね、タイチョー。何度も言ってるじゃん」
 ジョシュアは、彼女自身のお気に入りである「ジョッシュ」という呼び名を口にし、「タイチョー」……すなわちグリーンナイトの部隊長に抗議する。
 ジョシュア改めジョッシュの言葉を聞いたグリーンナイトの部隊長の返事には、やはり取り付く島もなかったのだが。
「お前が両親から受けた名前は『ジョシュア』だろうに! 親から受けた名で呼ばれたくないとは、常々思うがお前はどういう了見をしているのだっ!?」
「パパとママも、ボクのことは『ジョッシュ』って呼んでたよ。そもそも『リョーケン』って何?」
 兜を脱ぐ部隊長の耳に、ジョッシュのその言葉が飛び込む。部隊長のこめかみに、ひとつ青筋が浮いたのはその直後だった。
「お前は『了見』という言葉も知らんのか!? 駐屯所に駐在しているときは、暇を見つけて文字の読み書きを練習しろと言ったはずだ!」
「だって、文字の読み書きってつまんないしさぁ」
「つまらないとは何事だ!? ルクレチアの国民の中には習いたくとも文字を習えない者が居るのだぞ!? 何故お前はグリーンナイトの任務を受けつつ文字を習える有り難みが分からんのだ!?」
 傍から聞いている者も、そして何より向けられている者も辟易するような説教が始まった。部隊長がジョッシュに会う日は、もはや日課となりつつあるこの説教を、ジョッシュは実に嫌そうな目つきで迎え入れる。
(あーあ、まーたこれだよタイチョーってば)
 先ほどまでは軽く浮かんでいる程度だった青筋は、今や部隊長のこめかみにはっきり浮かんでいる。ついでに部隊長の顔も怒気で赤みが差し、そろそろ冷静な判断が失われようかという時分に差し掛かっている。
 それを見計らったジョッシュは椅子に座ったままそっと目を背け、傍らの机に置かれたコップに手を伸ばす。
 黄色がかり、白く濁った液体が、ジョッシュの手に取った木のコップの中で揺れる。内側に塗られた防腐用のニスの臭いに混じって、ふんわりとした甘い香りがジョッシュの鼻孔をくすぐり始める。
 ジョッシュの好物の山羊の乳が、その飲み物の正体。
(あーもー、早く終わんないかなあ)
 部隊長のやかましい説教も、もはや自分の周りを飛ぶうるさい蝿の羽音程度にしか、ジョッシュは感じていなかった。
 山羊の乳は、ジョッシュの好物の一つ。今から5年前、故郷のカントリオの村を出るまで、山羊を飼っていた知り合いの村人によく飲ませてもらっていたものである。今でもこうやって給金のいくらかを手に、市場でちょくちょく山羊の乳を買ってはその味を楽しんでいる。
 人が説教をしている前で平然と飲み物を口にするのはあまり殊勝な態度とは言えないが、そこまで気を回すほどにジョッシュの神経は繊細に出来ていない。とことんまでマイペースな振る舞いを通すのが、このジョッシュという少女である。
 ついでに言えば、心のみならずその体もまた、マイペースと言わざるを得ない。
 部隊長の説教が収まらない状態で、彼女はおもむろに椅子から立ち上がった。当然のごとく、その行いを見た部隊長の眉間には、更に深いしわが刻まれる。
「ジョシュア、まだ話は終わっていない! どこに行く!?」
 ジョシュアはしれっと、部隊長にこう言ってのけた。
「トイレだけど?」
「……馬鹿者! そのくらい我慢して話を聞け!」
「無理。今山羊のお乳を飲んじゃったから、もうボク我慢できないし」
 部隊長の制止などに耳もくれず、ジョッシュはその場を去ろうとする。
「待て! 待たんか!」
 部隊長はなおもしつこく食い下がり、駐屯所から出て近くのトイレに向かおうとするジョッシュを引き留めようとする。
 ジョッシュはそれを、子供じみた意地悪さをたたえた瞳をして、迎え撃つのみだったが。
「あら? タイチョーってば女の子の『お花摘み』についてくるつもりなんだ? 『キシとしてのレーギ』とかいうのはどこ行っちゃったわけ?」
「!?」
 「キシとしてのレーギ」……すなわち「騎士としての礼儀」を盾に取られた部隊長は、ジョッシュの思わぬ発言に思わず言葉が詰まる。
「そ……それは……それはだな……!」
 目を白黒させてジョッシュの言葉への反論を考えようとする部隊長。だが、良くも悪くも堅物の彼にとって、騎士の道を盾に取られるというのはどうしようもない急所を掴まれるも同然のこと。
 ジョッシュは部隊長が慌てる様子をもう少し見ていたい気持ちにはなるが、体の方の欲求もあるのでそれは早めに切り上げておく。部隊長が我に返ったら、またトイレに向かうチャンスを失うと考えて。
 以上のようないきさつから、グリーンナイトの部隊長がようやく我に帰ったとき、ジョッシュの姿はとうの昔に駐屯所から消えていた形となる。
 それに対して部隊長は「ジョッシュ! トイレから戻ってきたら説教の続きだ! 騎士道を盾に上官を煙に巻くなど断じて許せん!!」などと喚くほかなかったが、この場から去ったジョッシュにその声が聞こえているはずはないだろう。仮に聞こえていても、彼女の頭に残る可能性など、万に一つもあるまい。
(さーて、さっさとトイレを済ませたらテキトーにどっかをうろうろして帰ろっと。町中を見回りしてたって事にすればいいよね)
 今日は自身の当番の日でもないのに、見回りを口実としてしばらく駐屯所に帰らないつもりのジョッシュを見れば、それも納得できようというもの。
(いやー、それにしてもアリシア様から、『お花摘み』って言葉を習っておいて良かったなぁ! あのタイチョーの慌てっぷり、超ケッサクだったし!)
 ルクレチア王国の女王の名を心の内で呼んだジョッシュは、満面のにやけ顔でその腹を抱えていた。
 淑女が『花を摘んで参ります』と口にしたなら、騎士は彼女の後を追ってはならない。騎士にしてみれば当然の行いを逆手に取って、ジョッシュは部隊長を煙に巻いてやったわけである。
 ジョッシュが「淑女」の範疇に入るかどうかには、極めて大きな疑問符が付くが、ともかく彼女は普段めったに使うことなどない頭を使い、こうして窮地(?)をかいくぐってみせた。
 ジョッシュはそのまま、駐屯所最寄りのトイレに入る。
 思い出し笑いを必死に噛み殺しながら、ジョッシュがトイレでの用事を済ませようとしたそのとき。
「……ありゃ?」
 ジョッシュは怪訝な声を出して、その手を止めていた。
 トイレの手洗い場として使われる井戸が、彼女の目の中に飛び込んできたことにより。
 鈍い金色の光が、井戸の中からかすかに漏れ出している。
 ジョッシュは井戸に近寄り、その中を覗き込み――。
「!?」
 それを機に、彼女は絶句していた。

忘れられた翼外伝 -地の底より咲く黄金花-3

Scene2

 窓から差し込む昼の光の中に、羽ペンが投げやりに置かれた。
 羽ペンの下に敷かれているのは、幾枚もの羊皮紙。そこに書かれた文字の種類こそさまざまだが、どれもこれもが魔術についての記述であることは共通している。
 その内の数枚には、まだ乾きかけのインクが乗っている。インクが形作る模様は現代のルクレチア語……それもかなり流麗な筆致のもの。
 この文字を書いた主が、呪文の解読を試みていたと想像するのは、そう難しいものではないだろう。
 羊皮紙が敷き詰められたテーブルの前には、木の椅子がひとつ。
 その椅子の上に座っていた藍色の長髪をした魔道士こそ、呪文解読を試みていた張本人に他ならない。
 藍色の髪の魔道士は、一つ椅子の上で大きな伸びをしてから、その身を椅子に預けた。
(やれやれ、城の古文書から引っ張り出してきた呪文の解読も一苦労だぜ)
 目の周りをほぐしながら、大きく息を吐くこの藍色の髪の魔道士は、人からはストレイボウという名で呼ばれている。
 彼は先日、ルクレチアの古代史を調べる過程で城の書庫をあたっていた。その際、それに付随していくつか魔術にまつわる記述を見つけた。
 古代史の調査もそこそこに、いくつか重要そうな記述のなされた羊皮紙に当たりを付け、そして今彼はこうしてその解読作業に携わっている。
 ただ、その解読作業がはかどっているかと聞かれれば、その答えは「否」なのだが。
(俺の手持ちの辞書は片っ端から引いてみたが、どの翻訳方法もしっくり来ない。呪文の意味が分からずとも、せめて呪文の発音方法くらい分かればいいんだが)
 ストレイボウは、一つ嘆息。
 今まであまり魔道士の育成に力を入れてこなかったルクレチア王国ではあるが、昨今の事情を見るに、このまま兵士のみに……すなわち戦士のみに頼りきりの体勢でいるのは、良策とは言えない。
 それを踏まえて、少しでも魔術の知識を現代に蘇らせたいと願うストレイボウではあったが、今のところその首尾は良くはない。
 そろそろ目も手先も疲れて来たので、少し休憩しよう。
 ストレイボウがそう決めた時、彼の部屋のドアの外から、何ともけたたましい足音が聞こえてくる。
(……ああ、ジョッシュの奴か)
 5年前、カントリオの村から伴ってきた少年……もとい少女の名を心に浮かべたストレイボウは、今更その足音に何の感慨も持ちはしない。
 彼女がルクレチアの城下町にやって来て以来、ことある事にジョッシュはこうして彼の書斎にやってくる。今回もおそらく、どうでもいい世間話をしに自分の所までやって来たのだろうと、ストレイボウは考えていた。
 ドアを蹴破らんばかりの勢いで開き、彼女にしては珍しくただならぬ様相で駆け込んできたのを見て、虚を突かれるその瞬間までは、の話だが。
「タイヘンタイヘンタイヘンタイヘンだよストレイボーウっ!!」
 ドアの前で急停止をかけ、姿勢もきちんと整えないままストレイボウの部屋に駆け込むジョッシュの体は、そのまま倒れ込んでしまいそうなほどに傾いていた。
「み……み……みず……が……」
「あぁ? ミミズがどうかしたのか?」
 そしてストレイボウのその返しで、とうとうジョッシュは脱力して盛大につんのめり、この部屋の中ですっ転んだ。
 転んだ拍子に床で額を強打しそうになったジョッシュはしかし、とっさに突き出した両手で受け身を取り、そのままバネを利かせて上半身を跳ね上げ、体勢を立て直すことに成功。その勢いのままストレイボウに顔を向け、彼に抗議の声を上げる。
「ちーがーうー! みーず! 水が大変なの!!」
「……ああ、『ミミズ』じゃなくて『水』か。とうとうお前の脳みその出来が残念すぎて、頭にミミズでも湧いたのかと思ったぜ」
 いつも通り無駄に元気のいいジョッシュの振る舞いを見て、ストレイボウもまたいつも通りの皮肉をジョッシュにくれてやる。
「もう! ボクの頭はそこまで悪くなんかないってば! ってゆーか聞いてよストレイボウ! 水が出なくなっちゃったんだよ!」
「何の水がだ? とりあえず何があったか落ち着いて説明しろ。俺には状況がさっぱり分からん」
 最初ジョッシュの慌てぶりに不意をつかれたものの、いつも通りの皮肉をぶつけてやれば、ストレイボウも彼本来の冷静さを取り戻すというもの。彼はあくまで冷静に、ジョッシュに説明を求める。
「あのね、町の井戸の水が出なくなっちゃったみたい。さっき井戸の中に桶を入れてみたら、全然水が入ってなくて、井戸の中から水の流れる音もしなくて……」
「本当か?」
「本当だよ!」
 ストレイボウはジョッシュの声を受け、ひとつうなずく。そしてそのまま、座っていた椅子から立ち上がり、部屋を出ようと動き出す。
「ストレイボウ、どこ行くの!?」
「ちょうどこの近くにも井戸があるだろ? そこの様子を見てくる」
 ジョッシュの制止を受けて、ストレイボウは自分の考えを簡単に彼女へ伝える。
「どうせまたお前の早とちりだろうとは思うが、一応確かめてきてやるよ」
 ストレイボウはローブの裾を舞わせながら、部屋のドアを閉めて退出。
 ジョッシュは何やら不満そうに鼻筋にしわを寄せる。だが閉められたドアを前にして、結局は観念したように黙って椅子に座り込むのを選ぶことに。ストレイボウが座っていた椅子ではなく、客用の小さな丸椅子に、だが。
 がに股になり、股間の前に手を突き、やきもきしながら彼女が待つことしばし。
 この部屋の主が、再びドアを開いて舞い戻ってきた。
「ね!? 止まってたでしょ、水!」
 ジョッシュは期待するようにストレイボウを見上げながら、彼の返答を待ち――
「……いや、普通に水が流れていたぞ」
 ――結果、ジョッシュの顎はかくんと落ちたまま、動かなくなった。
「そんなはずないよ! だってボクがトイ……」
「分かった分かった、とっとと帰ってお前の仕事に戻れ。俺はこの古文書の解読で忙しいんだ」
 さっきまで休息を挟む気でいたストレイボウは、すでにやる気を取り戻し、もとの椅子に座る。羽ペンにも手を伸ばし、作業を再開する構え。
「でもさあ……!」
「本当に井戸の水が止まってるっつうんなら、それをどうにかするのはお前ら王国兵の仕事だろ? 俺には関係な……」
「……そう。それが答えなんだ?」
 ストレイボウの言葉を遮るようにして、ジョッシュはつぶやいた。
 丸椅子に座ったジョッシュの足はいつの間にか閉じられ、その両手は彼女自身の太ももに挟まれている。
 彼女の額にかかる赤毛は目元に落ち、その青い両目を覆い隠していた。両肩は静かに、そして小刻みに震えている。
「そういう冷たい答えを返すんだね、ストレイボウ?」
「……だから……何だってんだ……?」
 ジョッシュのすっかり気落ちしたような様子を見て、さすがのストレイボウも言葉に詰まる。謝罪の言葉が口をついて出ることこそないが、何も言わねば沈黙のとばりは下りたまま。この何とも言えない沈黙が、そこはかとなくもどかしい。
 何か言おうとして、口元をもごもごと動かすストレイボウ。けれどもその試みは言葉にならないまま――。
「そう言えばさあ、ストレイボウ」
 ジョッシュの口元に、不気味な笑み。
「な……何だよジョッシュ?」
 ストレイボウはジョッシュの突然のうそぶきと笑みに、背中に一筋嫌な汗が流れるのを感じる。
「井戸の水が止まった事に気付いたとき、ボクが何をしていたかまだ話してなかったよねぇ?」
 そっと、ジョッシュが首を持ち上げる。
 彼女の顔に浮かんでいたものは、涙でも怒りの形相でもない。
 悪戯心に満ち満ちた、酷薄な笑み。
「実を言うとさあ、ボクさっきトイレに行って来たんだよねぇ。トイレでの用事を済ませる前に、ちょっと井戸を覗いてみたら、その時井戸の水が止まっている事に気付いたわけなんだ」
「……じゃあ、お前はトイレで用を足しそこねたってことか?」
 まさか。
 ストレイボウの腹の中に、冷たい氷が落ちたような感覚。
 彼の脳裏に去来するのは、「その」可能性。
 何が何でも、回避せねばならない最悪の筋書き。
 それが現実のものとならないよう、ストレイボウははかない祈りを捧げるが――
「そんなわけないじゃん? ボクはさっき羊のお乳を飲んでて色々とゲンカイだったからさあ。体から出てくるモノは止められないよねえ?」
 ――祈りは、打ち砕かれた。
 ストレイボウは表情を恐怖に凍り付かせたまま、がたんと椅子を弾き飛ばし立ち上がった。すでに、彼の膝は笑っている。
 ジョッシュが使っていたトイレの手洗い用の井戸水は止まっていた。
 しかし、ジョッシュの我慢はそのとき限界だった。
 これらの事実が導き出す恐るべき真実は、ただ一つしかない。
「そう言えば、少し手に付いちゃってたなあ。あの時けっこうボクも慌ててたし」
「お前……! 手……手を洗えよ!!」
 そう、ジョッシュは「トイレの後に手を洗っていない」。しかも「手に付いたまま」。
 引きつり、怯えきったストレイボウの声は、ジョッシュにせめてもの抗議を紡ぐが、それは山火事を消そうとする手桶一杯分の水のように、力ない徒労に終わるのみ。
「だって洗えなかったんだからしょうがないよね? 井戸水が止まっても何にもしてくれない、ストレイボウがいけないんだよね?」
「いや待て、その理屈はどう考えてもおかし――!」
 必死の糾弾に耳など貸さぬジョッシュの両手が、さながら疫病を全身にはびこらせたゾンビを思わせる様子で、ストレイボウの身に伸びる。
 ストレイボウは悲鳴を上げながら、その場から逃げ出そうと足を動かした。
 だが悲しいかな、魔道士の反射神経では、グリーンナイトのジョッシュの手と、そして足から逃れる事はかなわなかった。
 だん! という音と共に、ストレイボウのローブの裾が下敷きになる……ジョッシュがとっさに繰り出した、左足の下敷きに。
 退路は、断たれた。
「や……止めろ……!」
 洗われていないジョッシュの両の手が、ストレイボウの首筋を狙い大きく振り上げられた。
 そして、下ろされる。
「止めろ……!!」
 もはや回避は不可能。
 ストレイボウの鼻先にまで迫る手からは、鼻を突くような「あの」悪臭が漂ってくるように感じられ――
「止めろこのエンガチョ女ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 ルクレチアの城下町に、ストレイボウの断末魔の悲鳴が響いたのは、それからすぐの事だった。
 ちなみにストレイボウはこの後、直前でジョッシュに許しを乞い、威力を抑えた水属性魔術「シルバーファング」で彼女の両手を洗ってやることで、絶体絶命の窮地からは辛くも脱した。
 ジョッシュがその両手でストレイボウに触ることなく、両手の洗浄を受け入れる代価は、ストレイボウがこの事件の解決に協力すること。
 一応、今回はジョッシュの作戦勝ちと言ったところだろうか。
 戦術的な意味でも、衛生的な意味でも、二重の意味で「汚い手」ではあったが。

忘れられた翼外伝 -地の底より咲く黄金花-4

Scene3

 引き続き、ストレイボウは自らの書斎で思索に耽っていた。
 今度の思索の対象は、呪文の書かれた羊皮紙ではない。
 今や呪文の書かれた羊皮紙は机の端に丸められ、代わって開かれているのは新しい羊皮紙。
 新しい羊皮紙の側には古びた羊皮紙が置かれている。ストレイボウは先ほどまで、この古い羊皮紙の内容を、新しい羊皮紙に描き写していたのである。
(よし、とりあえず写し間違えはないな)
 今回ストレイボウが羊皮紙の上に載せたものは、魔術の呪文ではない。
 一言で言えば、「網目の描き込まれた地図」である。
 その地図の内容は、このルクレチアに住まう者ならまず見間違えるはずはない。
 ルクレチア王国の王城。そして、王城の周りに広がる城下町。
 このルクレチア王国一帯を表す地図である。
 ストレイボウは地図の複写の締めに、地図の右上に方角を表す矢印を記す。地図の上が北、下が南、右が東、左が西。模範的な、地図の書き表し方である。
(これで、この一帯の地下水脈はすべて描き込んだことになる)
 右手に羽ペンを持ち、余った左手は自身の顎にやるストレイボウ。そっと、複写元の羊皮紙と、自身の描いた地図を見比べる。
 彼の視線は、地図の上に描かれた建物の図には向かわない。その視線が這うのは、建物の上に描き込まれた網目の模様。
 この網目模様こそ、ルクレチア王国に引かれた地下水脈の図に他ならない。
 ストレイボウが複写元の地図を満足いくまで眺めたところで、今度ストレイボウが行ったことは、羽ペンを二度動かすこと。
 ルクレチアの城下町の一角に、「×」の印が付けられる。
 ここが、ジョッシュが先ほど使っていたトイレの位置になる。
(ひとまず、ここの水脈が止まっていることは確定している。あとはジョッシュの持ってくる情報次第だが……)
 ストレイボウがジョッシュの名を心の中で呼んだとき、書斎の窓に一つの影。
 曲芸じみた身のこなしで、その影が書斎に飛び込む。
 ストレイボウは、呆れたような表情を作り、その影を一瞥していた。
「ジョッシュ、入ってくるなら窓からじゃなくてそっちの扉から入って来い」
 軽やかな足音と共に書斎の床に着地したのは、ジョッシュだった。
 今度は申し訳程度に、グリーンナイトの制服である真鍮色の兜、そして緑色のマントを着けての登場である。
「だって、町の外を回ってからだと、こっちの方が早いんだもん」
 その身のこなしの軽さは、森林戦を得意とするグリーンナイトの面目躍如と言ったところ。ジョッシュは悪びれずに、ストレイボウに弁解を試みていた。
「まあいい。とりあえず、情報は集まったか?」
 これ以上ジョッシュの行いをとがめても詮無いと判断したストレイボウは、早々に頭を切り替える。先ほど自分が指示を与えた通り、彼女が動いてくれたかを確認する。
「うん、バッチリ! いっぱい回ってきたよ!」
 言いながら、ジョッシュは誇らしげに懐のそれを取り出した。
 ストレイボウの目の前に、もう一つのルクレチア王国の地図が広げられる。
 その地図のあちこちには、先ほどストレイボウが複写した地図に描き込まれたような、「×」印が付けられている。その「×」の印は、ストレイボウの描き込んだそれに比べて、乱雑に描かれているという違いはあるが。
「よし、これでこの辺の井戸や噴水、その他諸々の水場は全部当たったことになるな」
「で、これをどうするの?」
「こうするのさ。そいつを渡してくれ」
 ストレイボウは、ジョッシュに渡した地図を再度回収し、机に置く。その際複写元の地図は丸められた。これで彼の机に広がったのは、複写された水脈図と、そしてジョッシュが「×」を描き込んだ地図の、合計2枚となる。
 ストレイボウは、両者を慎重に見比べた。
 それが終われば、再び右手の羽ペンを動かす。
 水脈図のあちこちに、「×」印が描き込まれ始めた。
 ストレイボウがこの作業を始めると同時に、部屋には羽ペンの音の擦られる音が響くのみになる。
 それを見計らうようにして、ジョッシュはストレイボウに問うた。
「でさあ、結局ストレイボウは何がしたいわけなの? さっきは『後で説明する』って言ってたけど……」
「そうだな。ちょうどいいから教えておくか」
 ストレイボウは、「×」印を付ける作業と並行して、ジョッシュの疑問に答える形となる。
 先ほどジョッシュがストレイボウに知らせた通り、井戸の水が止まるという、謎の事件がこのルクレチアで発生した。
 しかし、ストレイボウが近くの井戸を確かめたところ、井戸の水は通常通りに流れていた。
 一見すれば矛盾している奇妙な現象だが、ストレイボウはこの矛盾に対する説明を、すぐさまに思いついていた。
「おそらくは、この井戸の断水はルクレチアの水場全体で一斉に起きている現象じゃない。断水は、局所的に起こっているようだ」
「なるほど! だからボクの見た井戸は水が止まってて、そこの井戸は流れてたってことね!」
「ああ。だからこそ、具体的にどこが断水しているのか、きちんと確かめる必要がある」
 手をポンと打つジョッシュに、ストレイボウは説明を続ける。
 ジョッシュが使った、兵士駐屯所近くの井戸は止まっていた。
 しかし、ここ……ストレイボウの書斎近くの井戸は、依然水が流れているし、少なくとも今のところは、その水も止まる気配がない。
 確かめるべきは、どの地下水脈が正常で、どの地下水脈が止まっているのかという状況。これさえ把握できれば、原因を特定する手がかりがつかめるだろう。
「お前を町中にやって、どの水場が断水しているか確かめさせてる間、俺は王城の書庫内に潜り込んで、こいつを探していた。つまり、ルクレチアに引かれた地下水脈図ってわけだ。どの水脈が断水を起こしているか、調べるためにな」
 そしてそのルクレチアの水脈図を複写する作業こそ、ストレイボウが今まで行っていたこと。
「それにしても、こんなの調べる人っているんだねえ」
「ああ。ルクレチア王城付近には、川や湖みたいな大きな水辺はない。となると、地下を流れるこの水脈が、王国の命綱になる。こいつを調べないことには、下手に城や町なんて建てられないからな」
 また地形の把握は時に、魔術の儀式を行う際などにも重要な役割を果たす場合がある。今回は魔術の儀式こそ行う事はないが、輪をかけて、この手の地図は必需品というわけである。
「この水脈図が描かれたのはだいぶ昔の事だから、もう涸れた水脈もあれば、新しく増えた水脈もある。俺の分かる限りで、それを手直ししたのがこの図ってわけだ」
 ストレイボウが言う間にも、水脈図の上の「×」の数は確実に増えていっている。
 最後の「×」が描かれたところで、ジョッシュは驚きの声を上げた。
 ストレイボウが水脈図に描き込んだ「×」印の位置は、ジョッシュの地図に描き込まれた「×」印の位置とぴったり一致している。
「……で、お前に調べてもらった断水箇所を、この水脈図に描き込んだ結果がこれだな」
 ルクレチアの地下を流れる水脈のうち、断たれているものとそうでないものが、鮮明に浮かび上がっている。
 ジョッシュの使っていた井戸は、断水した水脈の上にある。
 この書斎の最寄りの井戸は、断水していない水脈の上にある。
 それが、ありありと伺える地図が、この場に完成していた。
「なるほどね~! だから、ボクに『グリーンナイトの格好で町中から水の出ない場所を調べて来い』って言ったわけか!」
「ああ。グリーンナイトの格好で町中に向かった方が、城下町の連中から話を聞き出しやすくなると思ってな」
 ストレイボウは、小さく笑みを浮かべながら指を水脈図上に這わせていた。
 この図を得るためには、ルクレチアの昔の水脈図と合わせて、情報が必要だった。それが、断水した箇所の正確な位置。
 ストレイボウは、断水箇所を調べてくるというその任こそ、ジョッシュにふさわしいと考え、先ほど「きちんとグリーンナイトの格好をして町に出て、城下町の断水箇所をしらみつぶしに見つけてこい」と指示を出したのである。
 ストレイボウ自身が口にした通り、水源の管理は王国の役割の一つ。それゆえ、王国に仕える身である兵士が聞き込みを行った方が、より効率よく情報を集められると、そう判断したがために。
「その時町の様子はどうだったか、ジョッシュ?」
「どうって……どういう事?」
 ジョッシュの質問に質問を返す物言いに、ストレイボウは少し苛立ったように言い直す。
「俺の質問が悪かったな。町の連中は混乱してなかったかとか、喧嘩してなかったかとか、そういう事を聞いてるんだよ」
「ああ、そういう事ね!」
 この手のやりとりを何度も繰り返しながら、ジョッシュは悪びれた様子もない。
「んーとね、ボク達の他にも井戸の水が出なくなった事に気付いた王国の兵士さん達が、町の人達に話をしてたよ。慌てなくて大丈夫だとか、水が欲しいからって喧嘩するな、とかね」
「そうか……だとすると、だ」
 今はとりあえず、途切れていない水脈から水を融通してもらうなどすれば、急場はしのげるだろう。王国兵の監督もあるし、ひとまず対策を練るだけの時間は稼げている。
 ただ、この状況が長いこと続けば、国内の混乱が拡大しないとも限らない。この断水の原因も今のところは不明だが、最悪の事態を想定すれば、今は流れている他の水脈も次々涸れてしまうという筋書きもあり得る。
 それを考えれば、あまり悠長な事はできないだろう。
 そう判断するストレイボウは、単刀直入に結論を述べる事を選んでいた。
 羊皮紙を叩く音を伴って、ストレイボウの右手人差し指が水脈図の「そこ」を示す。
 ルクレチア王国の王城と、その周りに広がる城下町の遙か西。
 勇者の山の中腹、それも東部を流れている水脈が、ストレイボウの指した箇所。
「この断水の原因はここだ。ここで何らかの異常が起きて、ここから先の水脈に水が流れてこないみたいだな」
 ジョッシュの集めた情報から、断水した水脈をあぶり出したストレイボウ。
 この図を上流に……つまり西の方向に遡れば、やがて複数の断水した水脈が合流してゆく。
 ルクレチア王国で現在断水しているすべての水脈が合流し、一本の水脈にまとまる箇所はそこしかない。その箇所こそ、勇者の山の中腹東部。
「この勇者の山の中腹東部を水源としている水脈は、例外なく断水を起こしている。逆に、この中腹東部を通っていない水脈は、少なくとも今のところ水が流れている。ここに行って原因を取り除けば、再び水が流れるようになるはずだ」
「へー、ボク達が使ってる水って、勇者の山から来てたんだ!」
 ジョッシュは新鮮な驚きを乗せて、目を丸くする。
 が、続けて彼女の頭の中にやってきたのは、新たな疑問。
「……あ、でも勇者の山にも川って流れてなかったよね? どうして水が流れて……」
「あのなあ……川はなくても雪があるだろう?」
 ジョッシュの口にした疑問があまりに初歩的すぎて、ストレイボウは頭を抱える羽目になる。
「勇者の山はほぼ一年中雪を被っている。その雪が徐々に溶けて山の中に染み込むことで、ルクレチアの地下水脈が出来上がってんだよ」
「え!? 勇者の山の雪って溶けるの!?」
「雪が積もる一方だったら、今頃勇者の山は人が登れる大きさのままなわけないだろうが……!」
 いい加減彼女の口から出てくる質問の内容の残念さに、ストレイボウはいよいよ気が遠くなりそうな感覚にとらわれる。
「やっぱりここの水が止まってるって事は、ここがコクバンを起こしてるのかな?」
「それを言うなら『コクバン』じゃなくて『ラクバン』……落盤だろ……」
 ストレイボウはとうとう耐え切れずに、水脈図の上に突っ伏す。もはや彼女の言い間違いを訂正する事すら、全力を振り絞らねばならないほどに、ストレイボウは疲弊していた。
「……本っ当に、バカと話をしてると疲れるぜ」
「それじゃあさ、ストレイボウ! 早速ここに行こうよ! ボク達で井戸の水がまた出るようにしよう!」
「その前にだな……」
 まるで見えない鉛の枷でも受けているかのように重々しい、ストレイボウの右手。
 彼が机の引き出しから、投げやりな様子で3枚目の羊皮紙を取り出す。この羊皮紙は水脈図ほどの大きさはなく、ちょうど手紙を書くのによい大きさ。じじつ、その羊皮紙の中身は手紙だった。
「ちょっとこいつをアリシア女王のところに届けてきてくれ」
 ストレイボウは、あらかじめ書いておいた文章の末尾に、ルクレチア語を書き足す。この断水の原因に、ある程度の目星が付いた旨が、そこに書き加えられる。
 それが終わったら、机の端に置かれたろうそくに、羊皮紙をかざす。ろうそくの火で、インクを乾かす。
 生乾きだが辛うじてにじまない程度にはなった文字を確認したストレイボウは、羊皮紙を折り畳み、手紙の体裁を整えた。
 最後に羊皮紙の合わせ目に、ろうそくからこぼれる蝋を流し、冷えないうちに印璽(いんじ)で押し固める。
 これにより、この手紙には確かにストレイボウの手でしたためられた証である、封蝋がなされた。
「その手紙には、今回の事件の内容と対策を提案した文書が書かれている。この水脈図と一緒にアリシア女王に渡して、これらを参考にしながら今後の動きを決定して欲しいと伝えておいてくれ」
 ストレイボウは、岩のように重たくなった自分の頭を持ち上げて、自分の頭の下敷きになっていた水脈図を手に取る。投げやりにもほどがある動作で、ジョッシュの前に水脈図を突き出す。
 一方のジョッシュは、ストレイボウの言葉に目を輝かせていた。
「それじゃあ、アリシア様とお話ししていいんだよね!?」
「していいのは最低限の連絡だけだ。それが終わったらさっさとここに戻ってこい。いいな?」
「うん、オッケー!」
 満面に笑みを溢れさせながら、手紙と水脈図を受け取ったジョッシュ。それらを懐に入れたジョッシュは、スキップをしながら駆け出してゆく。
「アリシア様とお話しでっきる~、お話しでっきる~、嬉しいなったら嬉しいな~♪」
 だが、相変わらずこの部屋から出る際に使うのはドアではない。開け放された、窓の側。
 両足のバネを最大限に活かした跳躍で、ジョッシュはこの部屋から去ってゆく。
 出るときも入るときも、結局ドアを使うことはなかったジョッシュ。
 だが今のストレイボウには、彼女のその不作法な行いを咎めるほどの気力など、すでに失せていたことは言うまでもない。
 ストレイボウは、半ば無意識のうちに、頭痛止めとして机の中に常備している、ヨシュアの実をまさぐっていた。

忘れられた翼外伝 -地の底より咲く黄金花-5

Scene4

 一面の銀世界の中で、獣の吼え声が響いた。
 この吼え声の持ち主はナギーベア……この勇者の山に登る者達から、山の主とも目され恐怖される、巨大な白毛の熊である。
 大人の男4人分の丈に迫ろうかという巨大な肉体は、けれども今は吼え声に獣の怒りを乗せることはなかった。この吼え声が表すものは、彼の身を襲う苦痛。
「へへっ、ごめんねクマさん!」
 言葉の上では謝っておきながらも、まるで悪びれた様子もなく、赤毛の少女はナギーベアに言い放っていた。
 ナギーベアが振り下ろした鈎爪は、この赤毛の少女を狙っていた。
 直撃なら人間1人を軽く吹き飛ばし、一撃で致命傷を与えかねない巨大な腕で振るわれた鈎爪は、けれども彼女と紙一重の位置に突き立っていた。正しく言えば、彼女が紙一重でかわしていた。
 もちろん彼女の反射神経と身のこなしをもってすれば、これ以上の余裕をもって回避することなどわけはない。彼女があえて余裕をもっての回避を捨て、紙一重での回避を選んだのか--その理由は振り下ろされたナギーベアの鈎爪にある。
 白い体毛の間から伸びる鈎爪の根本に、1本のナイフが深々と突き刺さっていた。そのナイフの柄を握っているのは、この赤毛の少女の右手。攻撃をかわしつつの反撃を狙い、彼女はほとんど間合いの空かない紙一重の回避を選んでいたのである。
 ナイフを引き抜きざま、少女は一気に駆け上がった。
 雪で覆われた地面に打ち込まれた、ナギーベアの腕を足場にし、そのまま肩口まで登りつめる。ナギーベアの肩を足場にした彼女は、即座に両腕に一振りずつ握られたナイフを用い、華麗な舞を披露する。
「これでどう!?」
 2本のナイフは、ナギーベアの顔面で「X」の字を描いた。顔面を引き裂かれたナギーベアは、更なる苦痛の悲鳴を吹き上がらせる。
 ナギーベアはそれゆえに見逃した。赤毛の少女の短剣技「クロスブレード」が炸裂すると同時に、その足下から幾本もの火炎の柱が立ち上るところを。
 寒気がするほどの高熱を伴い、火炎の柱はナギーベアを取り囲む。たちまちのうちにその体毛が焦げ、その下の肉までもが焼かれる。
 ナギーベアが火炎の柱に全身を取り込まれ、そして呑み込まれ、巨大な一つの火だるまになったのは、それからほんの少し未来の事になった。
 火属性魔術「レッドケイジ」。それが、ナギーベアの命を焼き尽くした、とどめの一撃の名である。
 魔術で生まれた炎が勇者の山の寒気へと溶け消えたなら、その炎の内側からは、つい先ほどまで魔物だった灰の山が現れる。
 そして、灰を被ってげほげほとせき込む、赤毛の少女の姿も。
 赤毛の少女は、三つ編みに編まれた髪を揺らしながら、不満そうな声を上げる。
「ストレイボウ! ボクがナギーベアから離れるまで魔法を使うの待ってくれたっていいじゃん!」
 ナギーベアを丸ごと灰に変えるほどの業火にもろとも包まれても、無傷で生還した彼女は、自らの身に起きた奇跡に驚くことなく、この魔術の実行者に抗議。彼女の見る先には、1人の魔道士が遠巻きに立っている。
 赤毛の少女にストレイボウと呼ばれた藍色の髪の魔道士は、その抗議に耳をろくに貸すことなく、言い返してやる。
「安心しろジョッシュ。今の俺なら間違えてもお前を焼いたりすることはないからな」
「そういう問題じゃないし! ボクが灰だらけになるじゃん!」
 その名を口にされた赤毛の少女ジョッシュは、乱暴に灰をはたき落としながら、ストレイボウに言う。
「まさに『灰かぶり姫』ってとこか――いや、お前はまかり間違えても『姫』なんてガラじゃあなかったな」
 トリニティシリーズ……数多の魔術から着用者を守る、強大な守護力を持った魔道士用防具……を身にまとうストレイボウは、自分の皮肉に笑いながらジョッシュの元に駆け寄る。
 ジョッシュをナギーベアもろともに「レッドケイジ」に巻き込んでおきながら、それでもジョッシュにだけは一切火傷を負わせなかったストレイボウ。その技術を見たなら、並の魔道士なら驚嘆の声を禁じ得なかっただろう。
 「レッドケイジ」一発で、ナギーベアを消し炭どころか灰にするまで焼き尽くす凄まじい魔力もさることながら、それだけの魔力を完全に制御し、敵と密着していたジョッシュにはダメージを負わせていない。魔力の総量と操作能力が、きわめて高いレベルでバランスしていなければ不可能な芸当を、ストレイボウはいともたやすく成し遂げてしまったのである。
 ストレイボウがジョッシュの元に駆けつけるまで、そうはかからない。ストレイボウとの距離が縮まったのを見計らって、ジョッシュは不満そうに言葉を放った。
「ボクだってもう、ナギーベアくらいわけなく倒せちゃうんだから、ストレイボウはそこで見てても良かったのにさぁ」
「仕方ねえだろ、こいつが女王様の『ご勅命』なんだからな」
 不愉快そうな様子を隠しもせず、『ご勅命』という言葉を発音するストレイボウ。確かにジョッシュをナギーベアもろともに「レッドケイジ」に巻き込んだ事に、当てつけの意図がないと言えば嘘にはなる。
 ストレイボウがルクレチア王国の女王、アリシアに手紙を送ったのはすでに2日前の事。
 ストレイボウがヨシュアの実をかじり始めてから、ものの一刻でアリシアの返事は返ってきた。
 ストレイボウの手紙を届けたその帰りに、ジョッシュが携えてきたのは別の手紙。アリシア専用の印璽がなされた封蝋で、その手紙は封じられていた。
 頭痛をおして、ストレイボウはアリシアの手紙を読み、そしてその内容ゆえに、床に届かんばかりの勢いで顎を落とした。
 そこにあったのは、女王からの勅命。
 『グリーンナイトのジョッシュと共にこの断水の原因を調査し、可能ならばその原因を取り除け』。
 それが、勅命の内容だった。
(まったく、俺は今下手に動けない立場に居るってのによ……)
 一方で、今のストレイボウにはもっぱらの使命がある。城の古文書を解読し、少しでも魔術の知識を現代のルクレチアに蘇らせるという使命が。魔術師が圧倒的に不足している今のルクレチアでは、この任務をこなせる者は彼1人しかいない。
 もちろんそれを理解できないほどに、アリシアは暗愚な女王ではない。おそらく、何かの「後押し」があってその決定をなしたはず。多分、ジョッシュのわがままが、その「後押し」の正体だろうと、ストレイボウは読んでいた。
(……ったく、だからジョッシュを下手にアリシアの側に行かせたくなかったんだよ!)
 5年前、まだ幼かったジョッシュが王国兵への登用を望んだとき、その意志を汲んでくれたのがアリシアだったと、ストレイボウはジョッシュからは聞いている。以来ジョッシュはアリシアに非常な好意を寄せているし、アリシアもアリシアでジョッシュの事を憎からず思っているらしい。
 いちいち聞き出したりはしないが、ジョッシュがアリシアの元へ手紙を届けた際、ジョッシュは「ストレイボウと一緒にこの事件を解決したい!」とでも言って、アリシアにわがままをぶつけたのではあるまいか。それが、ストレイボウの想像する筋書きである。
 とにもかくにも、女王陛下直々の勅命であれば、聞き入れないわけにもいかず、ストレイボウは一晩の野宿を行いつつ、渋々ジョッシュと共に勇者の山に出向いてきた、というわけである。ストレイボウは今後、よほどのことがない限りジョッシュに伝令係を任せることはするまいと、心に決めていた。
「……でさあ、ストレイボウ。ストレイボウの言っていた場所ってこの辺だよね?」
 血糊を拭い、両腰の鞘にそれぞれナイフを差し入れたジョッシュは、元気よく腕を振るって、この一帯を指していた。
 勇者の山中腹東部。ストレイボウの推理で見当を付けた、断水の原因はこの付近にある。
 あたりは一面、冠雪している。今日はまだ天気も良く青空が広がるが、吹雪くようなことがあれば通行も困難になるだろう。
 周囲には雪化粧の針葉樹が伸び、山の景色に彩りを添える。2人が今居る場所から見て北側には、人が登るには少々急峻すぎる断崖がせり出し、その上は更なる高みへと続いている。
 たった今現れたナギーベアを最後に、魔物の気配はとりあえずなくなっている。針葉樹もあるためそこまで視界が開けているわけではないが、とりあえず魔物の不意打ちの危険は低いだろう。
 この景色をひとしきり眺めたストレイボウは、そっと右手をトリニティウェアの中から現した。右手に握られるは、ストレイボウの愛用の杖、トリニティスタッフ。
「ああ。だが念のため、ここらでもう一度ダウジングを試してみる」
 トリニティスタッフを空中に持ち上げ、そしてストレイボウはおもむろに手を離す。
 それでもトリニティスタッフは地面に落ちることなく、見えない手に握られているかのように宙に浮いたまま。ストレイボウはそれを確認するでもなく、そっと目をつぶった。
 ダウジング……それは地下に埋まった貴金属や水などの存在を見つけ出す、初歩的な探知魔術のひとつ。
 この魔術を行うには"L"の字に曲がった二本の杖を用いるのが定石ではあるが、ストレイボウほどの魔道士ともなれば、その定石になど従わずとも、水脈を探知するなど朝飯前の行いとなる。
 空中に浮いたトリニティスタッフに両手をかざしつつ、小さく魔術の詠唱を続けるストレイボウ。トリニティスタッフは空中で静かに揺らぎながら、この辺りの水の存在を逐一彼に伝えてくれる。
 ある時、詠唱が止んだ。
 同時に閉じられていた両目を開き、空中に浮いていたトリニティスタッフを再度つかむストレイボウ。ダウジングの正否は、彼の瞳の光を見れば明らか。
「ちょうどこの辺一帯の地下に、巨大な空洞がある。その中に今大量の水が溜まっている」
 振り向くストレイボウは、勇者の山の南側にその体を向け、トリニティスタッフで少し離れた地面を指す。彼が示すのは、その地下。
「本来ならばあの辺りの地下水脈に水が流れているはずだが、この地下の空洞のどこかで水の流れが断たれ、涸れているみたいだな」
「やっぱり、『ラクチン』で水の通り道が埋まっちゃったとか?」
「『落盤』だ。いい加減にルクレチア語をきちんと覚えろ」
 ストレイボウは不躾な様子でジョッシュに釘を刺す。いちいちジョッシュの言い間違いの訂正などで、余計な労力を使いたくない、といった様子で。
 ストレイボウは、つとめて淡々と今得られた情報をジョッシュに語り続ける。
「水の流れが断たれているのは、この地下の空洞の最深部あたりのようだな。水の流れが途絶えた原因は、確かに空洞内で起きた落盤か何かである可能性もある。だが俺のダウジングだけでは、断水の原因をきちんと特定するのは難しいな」
 左手を自らの髪の中に差し入れながら、困ったようにストレイボウはこぼした。
 いくらダウジングが初歩的な魔術とは言え、本来占術はストレイボウの専門外。ストレイボウが元々得意とするのは、先ほど見せた「レッドケイジ」のような戦闘向けの魔術である。
 ここに占術を専門とする魔道士が他にいれば、ダウジングからもっと精密な情報を得る事ができただろうし、それでも不足ならダウジング以外の占術を併用してもらうこともできる。惜しむらくは、ストレイボウがそのレベルまで占術に習熟していないという一点。
 だが、ストレイボウを悩ませている真の原因は、自らが占術を十分に使えないことにはない。自らの占術で得られる程度の情報からでも、断水の原因を排除することは容易でない、と知った点にある。
(地下の空洞内の最深部に断水の原因があると分かったはいい。だが、これじゃあ断水の原因に近付くだけでも一苦労だぜ)
 この付近の地下空洞に大量の水が溜まっているのは、先ほど触れた通り。もはや地下空洞は「地下空洞」ではなく「地下湖」と言った方が正しい状況になっている。そしてその「地下湖」の最深部に進むには、この水こそが最大の障害となる。
 ストレイボウのダウジングで分かる限りでも、今の「地下湖」の水深は相当なものになっている。そして推測される断水の原因箇所は、よりにもよって水没した地下空洞の最深部。仮にそこまで泳いでいくとなれば、間違いなく呼吸が保たない。年季の入った漁師や海女でさえ、潜ることは不可能な水深だろう。
 おまけに、勇者の山は雪が積もるほどに寒冷な山である。地下に溜まった水も、凍り付く一歩手前の水温と見ていい。そんな低温の水の中を泳いだらあっという間に体温を奪われ、最悪凍死の可能性もあり得る。論外の選択肢である。
 すなわち、呼吸と低温――地下空洞に溜まった水が2つの大きな障壁として立ちはだかる形になる。今ルクレチア国民が何よりも必要としている水が、そのまま断水を解決するための障壁になっているというのは、実に皮肉な巡り合わせと言わざるを得ない。
(しかも、それを乗り越えても、やっと断水の原因箇所にたどり着けるって段階だ。今の時点では断水の原因も特定できていない以上、どう作業するか計画も立てられない。こいつは相当な難問だな)
 ストレイボウは、髪の中に差し入れた左手の人差し指で、そのまま自分の頭皮をとんとんと叩く。その脳裏では、最悪今回の任務を偵察のみで終わらせ、一旦王城に帰還して情報を持ち帰るのみに留める、という選択も浮かんでいる。
(そもそも、地下空洞にどうやって進入するかが第一の問題だ)
 そして水の乗り越え方や断水の解決の仕方に悩む前に、いの一番に考慮するべきはそこである。
 ストレイボウはダウジングで地下空洞を見つける事はできた。そこまではいいが、その地下空洞に潜り込むための経路までは見つけられなかった。
 ストレイボウは改めて、占術の不得手な自分に悪態の一つもつきたくなるが、それでは事態は解決しない。
 ならば自分自身の得意とする、戦闘向けの魔術をもって「力ずく」の解決を図るのみ。決意するストレイボウはその場でしゃがみ込み、雪面の上に手をかざす。
(この程度の厚さの雪なら、『レッドケイジ』一発で溶かして地面を露出させるくらい朝飯前だ。その上で地面に直接『ブラウンシュガー』を放って、地下空洞まで続くトンネルをブチ開けるってところかな)
 ダウジングで得られた大まかな地下空洞の大きさと位置から、このあたりの地盤の厚みにおよその見当を付けたストレイボウは、作戦を練る。
 ストレイボウの習得した土属性魔術「ブラウンシュガー」は、土翁(どおう)ノームの力を借り受けて、大地の一部を砂塵に変え、その砂塵で敵を痛めつける攻撃魔術。ストレイボウはそこに更なるアレンジを加え、大地から生まれた砂塵を凝縮して巨大な岩石を生み、それで敵を乱打する魔術に改良している。
 この「ブラウンシュガー」を、足下の地盤に放ち砂塵に変えれば、自らの重みに耐えられなくなった地盤はそのまま崩落し、地下空洞に通じる穴が空くだろう。
 砂塵に変えなければならない土砂の量は少なくはないが、ストレイボウにとってはまるで案じるような事ではない。
 岩石をただ砂塵に変えるだけなら、むしろ通常の「ブラウンシュガー」を詠唱するよりも魔力の消耗は少ない。もとより、休息を一切挟まずとも、自身の最強の魔術を十連発以上できるほどに、ストレイボウの魔力量は膨大である。かてて加えて、魔力を回復するための瞑想術まで心得ている彼にとっては、この程度のトンネルを掘り抜くための魔力消耗など、魔力消耗のうちには入らない。
 残るは上手にトンネルを掘り抜くための魔術の制御だが、これもまた彼には問題にならない。ナギーベアだけを狙い澄まして「レッドケイジ」の炎を浴びせられるほどの精密な制御ができる彼なら、この辺りの地盤の破壊も必要最低限で済む。
(それじゃあ、おっ始めるか)
 ストレイボウが、ひとつ息を吸い込み、「レッドケイジ」の詠唱を始めたとき。
 岩石同士が派手にぶつかったかのような音が、ストレイボウの後方から飛んできた。思わず、ストレイボウは肩を浮かせる。
「新手の魔物か!?」
 トリニティウェアの裾をはためかせながら、勇者の山の北側に振り向いたストレイボウ。しかし彼は、自らの予想が外れであったことを即座に知ることになった。
 北の崖に空いた、大きな穴が目に飛び込んできたことにより。その大穴の真ん前には、いつの間にかジョッシュが立っていた。
「ねえねえストレイボウ! この穴から潜れるんじゃない?」
 「レッドケイジ」のために集中させた魔力が、両手の中から散ってゆくことにも気付けなくなるほどに、ストレイボウは呆気にとられた。
 ストレイボウが目前の出来事を理解するまでは、わずかばかりの時間を必要とすることとなる。
「……何で、そんな所に入り口が……?」
 嬉しい誤算とは言え、自分の行った計算がすべて狂った事により、ストレイボウはただそう言葉をつぶやくのが限界。一方のジョッシュは屈託のない笑顔で手を振りながら、ストレイボウを招き寄せる。
「何となくこの辺の崖がヘンだなーって思って近付いてみたら、なんか手をかけられそうな所があったからさあ……それを試しに横に引っ張ってみたら、崖が横にずれて洞窟の穴が見えたの! ここが、入り口なんじゃない?」
 ジョッシュの招きに応じて駆けよりつつ、たった今崖に開かれた大穴を見やるストレイボウ。
 この大穴の大きさは、人が十分潜り込めるほど。その気になれば、一気に4人くらいが入れるほどの広さがあるだろう。
 ダウジングで感知できるのは水の存在のみで、洞穴の正確な形を把握することはできないとは言え、これほどの大穴の存在に一切気付けなかったことに、ストレイボウは何とも言えない不条理な気持ちを、わずかばかりに抱えることになる。
「……俺はこの大穴の存在にまるで気付けなかった。ジョッシュ、お前はどうしてこれに気付けたんだ?」
「んーとね、『ボンノー』ってヤツ……かな?」
「それを言うなら『本能』だろ。……まあ確かに、お前は本能で生きてるようなもんだがな」
 むしろ『煩悩』の方でも間違いはないか、と心中でつぶやくストレイボウ。
 今回は律儀にジョッシュの言い間違えを指摘し、大穴の目前にまでやって来たところで、彼はその中に首を伸ばしてみる。
 中を覗き込んだストレイボウが違和感ゆえに眉を歪めたのは、それからすぐのこと。
「……どういうことだ?」
 思わずこぼした彼の言葉の意味を、ジョッシュは問う。
「どうかしたの?」
 ストレイボウを追うようにして、ジョッシュは身を乗り出し中を覗き込む。
「こうすれば分かりやすいぜ」
 その言葉が終われば、ストレイボウはジョッシュを包み込むようにして、トリニティウェアの裾を広げ、かざす。
 傍目から見れば、年若き乙女を自らのマントにくるみ、何やら不埒な行為を働かんとする不届き者の所業にも見えなくはないが、当然ストレイボウの真意はジョッシュに不埒な行為を働くところにはない。
「!?」
 これで、ジョッシュもストレイボウの違和感の正体を察した。
 彼がトリニティウェアの裾を広げたのは、大穴に差し込む太陽の光を遮ることにあった。洞窟内に差し込む太陽の光を遮ることで、洞窟内の光を見やすくするという、その目的の為に。
「これって、洞窟の壁が光ってるの?」
「どうやらそのようだな。俺もあちこち冒険した経験があるが、こんな奇妙な洞窟を見たのは初めてだ」
 太陽の光の元では気付きにくいが、こうして光を遮ればより分かりやすくなる。
 この洞窟の岩肌は、薄ぼんやりとだが光を発している。それも無機質なまでに乾ききった、白い光を。
 本来白い光は、七色の光全てが混じり合うことで生まれる。それなのに、この洞窟の岩肌が放つ白光は、まるでその内側に色彩が感じられない、不気味なもの。
 この無機質な光は、洞窟の壁だけではなく、地面からも天井からも放たれている。
 光度は真昼の太陽にはとても及ばないだろうが、それでも中に入って目が暗闇に慣れれば、活動するのに支障はないだろう。
 トリニティウェアの中で、ジョッシュはストレイボウの顔を見た。
 ストレイボウは首を縦に振り、応じる。
 この崖に空いた大穴を潜って、洞窟に進入する意志を、2人はすでに固めていた。
 先行するのはジョッシュ。腰の鞘に差したナイフにいつでも手を伸ばせるよう、指をほぐしながらの前進。これだけの光度があれば、左手に松明を掲げ持つ必要はない。
 続くストレイボウも、トリニティスタッフには火属性魔術の火を灯すことはない。
 慎重に足を踏み入れる2人の耳には、それゆえにかすかな音が届き始めている。
「ストレイボウ……これ、水が流れてる音だよね」
「ああ。多分この洞窟に流れ込む地下水脈の入り口からの音だな」
 ストレイボウがそう推理した論拠は簡単である。現在この洞窟……すなわちストレイボウがダウジングで発見した地下洞穴……では、出口の側で断水を起こし、流れが止まっている。ならば、水音が聞こえてくるのは入り口側しかあり得ないという、しごく単純な話。
 洞窟に入ってすぐ、このすぼまった洞窟は広がる。
 壁も、地面も、天井も。
 全てが薄ぼんやりと白光を放つ、不気味な地下空洞が、その全容を2人の前に現す。
「……すご……何これ……?」
 ジョッシュの両手からは、すでに力が抜けてぶらぶらと揺れるのみ。
 この洞窟は、いくつもの段差を作りながら、北側と東側に広く深く伸びている。洞窟の形がいびつであるがゆえに、ここからでは見えない部分もあるが、つまりこの洞窟は相当に広大なものと言えよう。
 洞窟を区切っている崖状の段差のうち、何カ所かは自らの重みで崩れ落ち、階段状に変形している。この洞窟を調査するなら、格好の足場として使えるだろう。
 また一部の段差には、この洞窟の入り口のように、大穴が空いている。その大穴の向こうまでを見通すことはできないが、つまりこの洞窟にはいくつもの岩室(いわむろ)が出来ているということ。もしかしたら、その岩室のうちのどれかが、断水の原因箇所に通じているかも知れない。
「だが、やはり今この洞窟の大半の箇所は水没しているか」
 ジョッシュが言葉を失った理由は、今ストレイボウが口にしたその言葉になる。
 この洞窟の中を探査する際、段差が階段状に崩れた部分を使えば便利であることは事実だろう。もし、洞窟が水没さえしていなければ。
 洞窟内の岩室も、崖状の段差も、今では一部の高台を除いてそのほとんどが水没している。この洞窟に流れ込む雪解け水が、排水されないのだから当然のこと。
 ぼんやりと光る壁面を持った洞窟が、水の中に沈んでいる。この光景を幻想的だとか神秘的などと評することは簡単だろうが、これを越えねばならない身にとってみれば、そんな物見遊山気分ではいられない。
 難しそうに唸るストレイボウ。ジョッシュはそれを見て、質問をぶつけてみる。
「どうしよっか、ストレイボウ?」
 ストレイボウは、問うジョッシュを一瞬ばかり横目で見た後、トリニティスタッフでかつんと地面を打つ。
 同時に、地面の一部が砂塵に変わった。ごく小規模に起こした「ブラウンシュガー」の効果である。
 ストレイボウは洞窟の地面の一部が砂状に変化したのを確認した後、トリニティスタッフの石突きをその砂の中に差し入れた。
「とりあえず、これを見てくれ」
 ストレイボウの握ったトリニティスタッフは、砂の中に潜ったまま動く。砂状の地面の上に何か絵を描いているのだと、ジョッシュは気が付いていた。
 一旦、ストレイボウは手を止める。そこに描かれていたものは、四角形と、そして方角を表す矢印だった。
「この四角形が俺達の居るこの洞窟だ。で……」
 ストレイボウが次に描いたのは、細い1本の線。その細い線は四角形から少し離れた右側より始まり、途中で曲がって四角形の下方へ伸び、そこでストレイボウはトリニティスタッフを引き上げた。
「これが今断水を起こしている地下水脈だな」
 言い換えれば、地下水脈はこの洞窟の東部から始まり、南部へと伸びている、ということになる。
「俺達はこの地下水脈を何とかして、こうするのが目的になるな」
 今度ストレイボウがトリニティスタッフを突き入れたのは、四角形の右側の辺……つまり、洞窟の東部。
 ストレイボウはそこからトリニティスタッフを右側に動かし、新たに描き込んだ線を地下水脈を表す線まで繋げる。
 これで、洞窟東部の壁から伸びた水脈が、涸れた地下水脈に接続された図が完成。
 しかしながら、ジョッシュはこの図に描かれたストレイボウの真意が分からず、思わず首を傾げることに。
「つまり、どういうこと?」
「俺達が新しく地下水脈を掘って、その地下水脈を涸れた水脈まで伸ばす、ってことだよ」
 ジョッシュ相手にわざわざ解説をしてやるのも、正直馬鹿らしい気がしないでもないストレイボウ。ため息混じりにそっぽを向いて、今度は水没した洞窟の水底を覗いてみる。
「へー。たとえばあそこらへんに穴を空けちゃうとか?」
 ジョッシュもまた身を乗り出し、洞窟の水底を見ながら、適当な所を指さしてみる。
 ストレイボウは、ただそれにもう一度唸って生返事を返すのみだが。
「俺もそうするって手は考えたんだが……」
 ストレイボウはさまざまな可能性を考慮しながら、打ち手の勘案を続ける。
 この洞窟の現在の水位は、場所にもよるが、大人の男の背にして5~10人ぶんといったところ。潜ってゆくには絶望的な深度だが、幸いにも水の透明度は高い。おまけに水底である洞窟の地面は光を放っているので、水底を視認することはたやすい。
(俺の『ブラウンシュガー』なら、水底は十分射程範囲内だな。要は地面に『ブラウンシュガー』を撃って、そのまま掘ったトンネルを南の水脈まで伸ばせばいいだけだし、これなら十分実行可能だ)
 しかもこの作戦を採用するなら、今度は水を味方に付けられる。
 一度「ブラウンシュガー」で地盤を柔らかくしてしまえば、そこにこの大量の水による水圧がかかる。その水圧で勝手にトンネルを押し広げて水が流れてくれるため、「ブラウンシュガー」にそう大量の魔力を込める必要はない。
 だがその反面、この作戦には一つ問題がある。
「……下手にこの洞窟の底に穴を空けると、ここに溜まった大量の水がルクレチアまで一気に流れることになる。それが原因で地下水脈に余計なダメージが残るかも知れないし、下手をすればルクレチア王城や城下町が水浸しになるぞ」
 これだけの水を流すと言うことは、ある意味ルクレチアに鉄砲水を流し込むようなもの。確かに断水は解決するだろうが、水不足が今度は洪水になりました、ではどうしようもない。
「じゃあ、ちょっとずつ水を流せばいいんじゃない?」
 ジョッシュのアドバイス。ストレイボウは珍しく、彼女からのアドバイスを聞いて首を振る。
「だな。じゃあ、その作戦を採用するぞ、ジョッシュ」
 ストレイボウは、洞窟の水際を前にしてトリニティスタッフを持ち上げた。呪文の詠唱が、追って始まる。
「水の乙女ウンディーネの吐息よ――白銀の凍気を成し、氷雪を結べ!」
 ストレイボウが選び取ったのは、水属性魔術の「シルバーフリーズ」だった。
 呪文の詠唱が終わると同時に、生み出される氷雪。
 ストレイボウは、けれども呪文の詠唱が終わってもなお、精神の集中を切らさない。
 魔力が渦巻くトリニティスタッフの先端を、ストレイボウは洞窟の奥に向けてかざした。
 彼の足下に生まれた氷が、更なる成長を始める。氷の津波が、この洞窟の中で発生した。
 氷の津波は、当然のように目前の水面など意にも介さず、その上を走り抜ける。
 洞窟の中の水面の上に、「シルバーフリーズ」による氷の橋が架けられるまで、それほどの時間を要することはなかった。
「おおー! こういう手があるんだ!」
 ストレイボウが見せた大技を前に、ジョッシュは感嘆の声。
「とりあえず、近くの水没していない箇所まで、氷の橋を架けた。これなら水上を移動できるだろ?」
 トリニティスタッフを軽く手の内で弄ぶストレイボウ。
「今はこの方法で洞窟の奥まで進入して、さっき言った排水作業をやりやすい箇所を探す。ひとまずは、洞窟の東部を目指して移動するぞ」
 ストレイボウは先んじて、洞窟の水面にかかった氷の橋に足をかけた。
 その厚さは十分なようで、ストレイボウが足をかけたところで、氷の橋は小揺るぎもする事はなかった。